2008年03月03日

カンボジア内戦

内戦って悲しいですよね。。

カンボジア内戦は東南アジアのカンボジアにおいて、カンボジア王国が倒れたのち、四派合同政権が統一するまでの間、20世紀後半に続いた内戦状態をいう。

カンボジアは1949年にフランス領インドシナからの独立を認められ、ノロドム・シアヌーク国王によって統治されていたが、王制に対抗する国内派閥の抗争があり、国内には不安定要素を抱えていた。1960年代中頃までに始まっていた王の微妙な調整策は失敗に終る。カンボジア領域内の北ベトナム軍およびベトコンの大規模補給基地の存在、カンポン・シャムの共産軍に対する補給揚陸港としての使用と同様に、隠密の情報収集、サボタージュ使命および南ベトナム軍とアメリカ軍による領空飛行は、カンボジアの偽りの中立を作った。しかし、1965年2月に米国が北ベトナムの空爆に踏み切ると、シアヌークは対米断交に踏み切り、ベトコンの拠点となった(シアヌーク・ルート)。米国はインドシナ安定と戦争の遂行のために、カンボジアに親米的な政権を樹立する必要があった。

シアヌーク国王がモスクワと北京への訪問途中であった1970年3月18日の朝、下院は急遽召集され、国家元首としてのシアヌークを退けることを満場一致で可決した。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となり、10月にクメール共和国の樹立を宣言した。一方、シアヌークの従兄弟であるシリク・マタクは、代理の首相としての彼の地位を保持した。ロン・ノルの首相就任式の際、米軍は空からシアヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノルを援助した。新政府は米国に守られる形で権力の譲渡の有効性を強調し、それはほとんどの外国の政府に認められた。

当時、プノンペンのほとんどの中流層はシアヌークの政治にうんざりしており、政権の変更を歓迎した。しかし、彼は農村部においてまだ人気があり、クーデターの数日後にはシアヌークは北京においてロン・ノルへの抵抗を訴え、デモと暴動が国の至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシアヌークの復権を要求するためのデモ行進を行ったが、それらは軍隊と衝突し、多くの死傷者を生じた。また、ロン・ノルは翌1970年4月、アメリカ軍に自国への侵攻を許可した。これはベトナム戦争のホーチミン・ルートを粉砕するためだったが、彼はこのために国民の不人気を買った。

一方、シアヌークは中国にとどまったが、彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポトらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。10月、ポル・ポトはシアヌークを擁立してカンボジアに侵入、ロン・ノル政権との間で内戦が勃発した。
(以上、ウィキペディアより引用)

日本でも起こらなければいいです…。

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